令和6年能登半島地震 帰省中の被災体験

畑中と申します。

令和6年(2024年)1月1日、元日の家族団らんの時を最大震度7の大地震が襲いました。当時、私は子供2人を連れて能登町(旧柳田村)の実家に帰省していました。

命の危険を感じながらも何とか京都の自宅まで帰り着いたものの、能登町のことが心配で何も手をつけられませんでした。そんな時、同じ能登町出身の山下から復興支援サイトの運営協力の相談をいただき、参加することにしました。

ひとまず被災の瞬間、そして京都の自宅に戻るまでの出来事を書き記します。被災直後がどのような状況で、どういう気持ちで過ごしていたかを共有できればと思います。

2024/1/1 16:00過ぎ

私と2人の子供は前日から能登町(旧柳田村国光地区)に帰省しており、のんびりした元日を過ごしていました。お正月なので同じ石川県内(七尾市)に住む叔父の家族も来ていました。Eテレ「2355」でのくじ運は最高!良い2024年が始まったな、などと考えていました。

4歳の息子を抱っこしながら仏間に置いてあるトランポリンで遊んでいました。トランポリンで跳ねていると、トランポリンの揺れとは異なる強い横揺れを感じました。あわててトランポリンを降り、息子に覆い被さりました。最初の揺れは震度5程度で収まりましたが、さらなる揺れに備えてその場を動きませんでした。

直後、緊急地震速報が鳴り、強烈な揺れが襲いました。縦に横にも大きく揺れ、立っていられなくなりました。柱がメトロノームのように揺れました。のちに8歳の娘が「空中にジャンプした」と表現するくらいの激しい揺れでした。

揺れの途中で津波警戒アラートが鳴り響き、家具は次々と倒れ、さっきまで遊んでいたトランポリンの上には電気が外れて落下しました。外を見ると隣家の壁は崩れ、子供は2人とも大声で泣き、いよいよ停電し、地獄絵図とはまさにこのこと。家が崩れて死んでしまうと本気で思いました。

揺れが収まった後は落下物に警戒しながら全員で外に出ました。すると、近所の人たちも続々と集まってきました。近所には倒壊した建物や、今にも落ちてきそうな瓦屋根がいくつかありました。近所の人同士で情報を交換しましたが、電気も水道も途切れ、携帯は繋がらず、めぼしい情報は入ってきませんでした。

ペットの猫が怯えて逃げ出し、帰ってきませんでした。息子は頭を隠すのが癖になり、ずっと頭を片手で押さえています。

まもなく日暮れの時間帯・・・安全そうな窓から家に出入りし、まずは夜を越すための布団や毛布を片っ端から持ち出しました。

2024/1/1 夜

今は亡き祖父が、建設会社を経営していました。

私の実家は祖父が建てた鉄筋コンクリート製の建物で、幸運にも全壊・半壊は避けられました。しょっちゅう雨漏りし、固定資産税がバカ高い建物に嫌気がさしていましたが、金輪際文句は言わないことにします。しかし、建物が歪んだり、壁のコンクリートが剥がれたり、地面にヒビが入ったり、危険な状態だったため、同じく鉄筋コンクリートでできた車庫に陣取ることにしました。

ただ、初日は車庫の状況もわからず怖かったので、全員車中泊することにしました。

17時頃になると電気が復旧しました。1/2の夜に再び停電することになるのですが、地震発生直後に一時的にでも復電したのは不幸中の幸いでした。家から炊飯器を持ち出し、車庫のコンセントを使って夕飯の米を炊きました。後で知ったのですが、一時的な電気の復旧があったのは旧柳田村内でも限られており、他の地区はより厳しいスタートだったのではないかと想像します。

実家に住んでいる弟が近所との情報交換を続けました。隣家に住む青年Tが消防団員で、自分の家がひどい状況なのにも関わらず献身的に情報収集に向かっていました。Tの情報により、柳田小学校が避難所になっていることや、避難所にも電気が来ておらず、集まった200名程度は全員車中泊になりそうであること、を知りました。また、能登から金沢へ向かう道路がズタズタで、能登半島が孤立しそうだという情報も入ってきました。

災害の初動にも関わらず、近所の連携が強く、京都で同じような状況に陥ったら自分は何かできるだろうか、と考えさせられました。

この時点では、しばらく仕事も行けず子供達も避難所生活になるだろうか、ということが頭をよぎっていました。

午後7時頃、家から少し離れた場所で楽天モバイルの電波を拾いました。京都にいる妻に無事を報告すると泣いていました。連絡がつかずに待っている方も辛いよな、と思いました。

車中泊するものの、ガソリンを節約するためにほぼ暖房はつけませんでした。息子は車内にいてもまだ頭を押さえ続けています。それほどショックだったのでしょう。頻繁に聞こえる地鳴りと車の揺れのせいで、ほとんど眠ることができませんでした。

2024/1/2 午前

「津幡から能登に車で来た人がいるらしいよ。」

寒い寒い車中泊(30分しか寝てないけど)から目を覚ました朝に、最初に飛び込んできたTからの情報でした。道は完全に寸断されたと思い込んでいたので、かなりの朗報でした。とはいえ、のと里山海道は通行止め、道路状況が全くわからない中で下道を進む覚悟が必要です。

父の車にはガソリンが多く残っていたため、その場で出発する選択肢もありましたが、2人の子供を連れて情報が少ない道を行くのはかなりのギャンブルだと思い、静観することにしました。

午前11頃、実家に来ていた叔父が石川県七尾市にある自宅に向けて帰ることになりました。叔父が無事に家に到着するのを待ってから、私たちも出発することに決めました。

2024/1/2 午後

この時点では引き続き電気は使えており、冷蔵庫の中身も無事でした。また、携帯も繋がっていたため、避難所に行くことはせず、車庫での生活を続けました。

家の中はぐちゃぐちゃですが、すぐに崩れる様子ではないため、畳とこたつを持ち出して、車庫に臨時のリビングを作りました。

また、帰省の荷物も運び出しました。

車庫は寒いので灯油ストーブが大活躍しました。正月で人が集まるため、灯油のタンクを満タンにしていたそうで、しばらくは灯油の心配はありませんでした。

子供を祖母に預け、改めて近所の様子を見に出向きました。半壊で住めない家、全壊した納屋、隆起した道路・・・昨日までとは同じ場所とは思えない光景に絶句しました。

家に入るのは怖かったので、主な情報源はラジオとたまに繋がる携帯だけ。京都に帰り着くまで映像にはほぼ触れず、他の町の様子もわかりませんでした。

家の中から車庫に、ありとあらゆる生活品を取りに行きました。色々漁っているうちに、ケーキのスポンジを発見しました。私の誕生日が12/31なのですが、実は娘と祖母がこっそり相談して、正月明けに私に誕生日ケーキを作ってくれようと準備していたものでした。冷蔵庫には生クリームといちごもありました。

大変な時に何やってんだと怒られそうですが、車庫でケーキを作って食べました。貴重な食材は放っておくと腐ってしまうし、子供の気を少しでも紛らわせたかった。何より私のために準備していてくれていた気持ちが嬉しかったからです。前日からまともに食事をしていなかったことも重なって、どんな高級店にも負けない最高の味でした。

いよいよ水不足が深刻になってきました。家の備蓄はほぼなく、当然避難所に給水が来ているタイミングでもないため、きれいな水探しが始まりました。

私は子供の面倒を見ていたので、弟と父がきれいな水を探しに行きました。最初の2カ所は濁っていてダメでしたが、3カ所目の川の上流の水は濁りが少なく、使えそうでした。そのままだと菌が怖いので灯油ストーブで煮沸して使用しました。また、クリスマス付近にドカッと降った雪が根雪として残っており、それを溶かす作戦も併用しました。都会で同じような状況になった時のことを考えるとぞっとしました。

夕方、近所のビニールハウスに人が集まっていました。ビニールハウスにストーブを置いて、臨時の避難所が作られていました。ビニールハウスの所有者のみではなく、近所の人も寝泊まりできる場所として提供されており、田舎ならではのご近所同士の強い絆を感じました。

夜、再び停電が起きました。時を同じくして携帯の電波も全く届かなくなりました。

七尾市に向けて帰って行った叔父からの連絡も受けられなくなり、結局道路状況はわからないままとなりました。(後日談によると、叔父は1/2の午後9時頃に七尾市に到着したそう。通常なら1時間のところを10時間もかかった!)

電気・水道・携帯が使えず、頼りの綱は灯油のみ。子供達も不安がっていて、いよいよ移動する心づもりを決めるしかなくなりました。

2024/1/3

この日は小雨が降る予報でしたが、朝はまだ晴れていました。本格的に雨が降ると土砂崩れの危険が増すため、この日に妻の実家がある石川県小松市に避難することにしました。妻の実家には1/3に向かうことは伝えられていないけれど、金沢付近まで行けば携帯が使えるだろうという算段です。物資の調達を兼ねて、父の車に乗せてもらいます。

結局、逃げ出したペットの猫は帰ってきませんでした。

何時間かかるかわからないため、午前8時には出発しました。道路状況は聞きしにも勝る状態で、至る所に地割れ・陥没・隆起がありました。JAFも助けに来られないため、バーストしたら即アウト。子連れには過酷な旅が始まりました。

父はそこまで目が良くないため、私が助手席で道路状況を注視します。(集中していたので写真を撮っている余裕はありませんでした。)
地割れに垂直に進む場合はタイヤが傷つかないように、まだマシな箇所を徐行し、平行に進む場合は地割れを跨ぐ格好で進みます。片道が陥没・隆起している道路は突っ込んだらアウトなので超慎重に進みます。誘導係はいないので、対向車が全て通過するまでは足止めです。穴水町では壊れかけた橋の上を進みました。しかも渋滞により、壊れた部分でストップします。下は海なので、ここで崩落したらどうなるだろう、と恐怖を感じました(ここが一番怖かった)。海岸線の道路は海に向かって道路が落ちているところもありました。反対車線を慎重に進みます。

道中も全壊・半壊の住宅を多数目にしました。羽咋市に入るくらいまではちょくちょく見かけた記憶があります。

逆方向からやってくる救援車両に何度もすれ違いました。京都のよく知っている地名からの救援部隊が来ていたり、遠くは福岡からの救援も入ってきていました。地震発生から2日後という早いタイミングにも関わらず数百台の救援車両を見かけており、頼もしい気持ちになりました。

途中物資の買い込みも含めて10時間かけて小松市に到着しました。妻の実家では豚汁を作ってくれて、とても体が温まりました。避難所ではまだ暖かい食べ物は提供されていないだろうな、と心が痛みました。

また、少し落ち着いたら急に手が震え出しました。1日の緊張が出たのだと思います。子供達は疲れ果てて、あっという間に夢の中へ。私は気が立っていてなかなか眠れず、LINEに返信したり、Facebookに状況を投稿していました。

2024/1/4

午後の特急サンダーバードに乗って、小松から京都へ移動しました。

やっと自宅に帰り着くと、妻が不安そうな顔で待っていました。子供と妻が抱き合う姿を見て、あぁ、帰ってきたんだな、と実感しました。

近所のイオンモールに行きました。品物がたくさん陳列されている姿を見て、ふと違和感を感じました。どうして棚が崩れていなくて、こんなにも綺麗に置かれているのだろうか・・・

心が疲れていたのだろうと思います。そこから2日ほどは何をするにもボーッとしていて、妻に心配されました。また、近くを通る電車の揺れに、私も子供達も動揺してしまいました。避難所にいる方や壊れた自宅で暮らす人たちは今も極度のストレスと緊張の中にあるだろうな、と辛い気持ちになりました。

それから

しばらく実家に連絡が取れない状況が続きましたが、実家の固定電話(古いアナログ回線)であれば別電源がなくても通じることがわかり、1/6には実家に連絡を取ることができました。

1/7には携帯も入るようになり、1/8には電気も戻りました。

少しづつインフラが復旧しているようですが、水道の復旧はまだまだ見通しが立っていない状態だということです。

能登町のために何かしたい!という思いから、冒頭に書いた通り、復興支援サイトの運営に協力することにしました。遠方からにはなりますが、能登町の最新情報をできるだけキャッチし、周知していければと考えています。

緑豊かな能登町がいち早く元の姿を取り戻せることを願って。

支援ページはこちら(能登町からのYouTubeでのメッセージなど公開中)

この記事を書いた人

能登町応援メンバー