令和6年能登半島地震 1/1突然自宅を襲った地震〜1/2石川を出るまで


山下と申します。
まず、令和6年能登半島地震で亡くなった方、被災された方へは心よりお見舞い申し上げます。

僕は能登町(旧柳田村)出身で、現在東京に住んでおり帰省中に被災し石川から出た後、遠くから何かできることがないかと考えた結果能登町の復興支援サイトを同じ地元出身の人とできれば良いなと思いました。実際に体験した地震の恐ろしさや時々の感情など共有できればと思い記事を書きましたので読んでいただけると幸いです。

経験したことの無い揺れと轟音

2024年1月1日16時過ぎに突然強烈な揺れが能登町を襲いました。それは今まで経験したことの無い地震で、のんびり楽しく過ごしていた正月が一変、家族 親戚 友人、能登町にとって悪夢の正月になりました。

僕は12月30日から会社が休みだったため妻子供合わせて4人で車で石川県能登町の実家に帰省していました。車で実家まで8時間ほどかかるため30日は移動日、31日は友人と食事やゲームなどをして近況報告などしていました。

1月1日は、家族で過ごしており午前中は今年の抱負などを考えたりゲームをしたりして過ごし、昼に家族でご飯を食べて、午後15時ごろから父と弟と3人で麻雀をしていました。

そして16時過ぎに突然携帯の地震予兆のアラートが鳴り、家族でリビングの机の下に隠れて安全を確保していました。地震がきてすぐおさまり「結構揺れたけどたまにあるくらいの地震かな」程度の感じで話しており「さて麻雀再開しようか」と思った瞬間もう一度地震アラートが鳴りました。

「うわ、またきた」と思いもう一度リビングの机の下に隠れて地震が過ぎるのを待とうと思っていたら揺れがどんどん大きくなり姿勢を保つのも精一杯なくらいの揺れになっていきました。「やばいぞこれは」と思い机の下で子供2人を抱き抱えました。地震は収まらず勢いを増していったような感じがしました。自宅が左右にグラングラン揺れ、扉のガラスが割れたりタンスが落ちた轟音が家中に響き渡り「家が潰れる、生き埋めになる」と本気で思いました。早く収まれとずっと思ってたのですごく長い時間揺れていたように感じた・・・

揺れが収まった瞬間父が「外に出ろーーーー!!!」と大声で叫んでおり、すぐに子供2人を抱き抱えて靴も履かずに外へ避難し、
車が自宅の横に付けてあり倒壊した場合潰れる危険があったためすぐに移動させ、子供を車の中で待機させました。

揺れが収まって少し落ち着いたところで自宅の中を覗くと室内は到底過ごすのは無理だと判別できるくらいの悲惨な状況になっていました。行政から案内もない状況でしたが避難所に食糧や水などの物資をもっていかないといけない事は分かりました。

速報を携帯で見ているとさっきの1回目の揺れは震度5強、2回目のとてつもなく大きな揺れは震度7ということがわかり、感じました。「これは能登町全体の被害が凄まじいことになる」と・・・・

▼地震直後の家の様子

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: IMG_7631-768x1024.jpg
タンスやテレビなどが倒れている
画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: IMG_7632-768x1024.jpg
柱が倒れ、天井の壁が剥がれている
画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: IMG_7636-1-768x1024.jpg
玄関が割れ外れ、瓦が落ちている

能登→穴水間 唯一の道が塞がれ車中泊に

家の中から何も持たない状態で外に出てきたので避難所が開放された時に生きていく上で必要な物資がない状況で、食糧、毛布、防寒着などが必要になります。そのため家族で家の中へ入っては出てを早いサイクルで繰り返しながら物資を確保していきました。

今年は実家で作った餅が結構たくさんあり助かりました(日持ちしそう)、カセットコンロとガスも確保、毛布や防寒着、飲料水なども揃えて外で過ごす準備を着々と進めていました。

時刻は17時ごろで外は暗くなり始めてきており、さてこれから僕はどうするか判断が迫られてきます。東京から持ってきた荷物はある程度自宅から出して車に積み込みができたので、「東京に車で帰る」「自宅前で車中泊」「避難所までいって過ごす」などの選択が考えられました。

とにかく子供が地震に怯えており、アラートがなるたびビクビクしていたので子供にとって一番良い選択をしようと思いました。色々考えた結果、食料も限りがあるので僕と妻子4人は避難所に行かずに車で石川を出ることにしました。

道路状況が酷く、自宅の目の前の道路も一部めくれており避けて走らないとタイヤがはまって終わるという状況だったので慎重に運転しないといけません、暗くなり始めていたので出るなら今かなと思いました。

最後に荷物を確認して出発する直前iPhone4回分充電できるモバイルバッテリーは弟に託して自宅を後にしました。家族は柳田小学校が避難所になるという事だったので車に物資を積んで避難所に向かう感じになってました。

ここからがめちゃくちゃ大変、道路の地盤は亀裂入っているので時速20kmくらいのノロノロ運転で進み、天坂(地名)までいくと近くに唯一あるコンビニは真っ暗で閉まっていて駐車場が人であふれており事態は深刻になりそうだ・・と思いながらさらに車を走らせました

▼天坂この辺


穴水方面へ進んでいくといきなり土砂崩れで通れない・・・そこは住民の人が迂回ルートを確保してくれていてなんとかなりました。

そして桜峠を過ぎて(たしか)能登空港へ向かう前にも土砂崩れがあり、そこは周りに自宅も無く「これは詰んだな・・・」と思いました。迂回路が無いか橋の下道を捜索していると、能登空港方面から車が1台きました。手を挙げたら停めてくれて、おっちゃんに話を聞くとファミリーマート能登空港インター店付近から来たらしく、そこまではいけると教えてくれました。

「おおおこれはいい情報!」、災害時は情報がめちゃくちゃ重要になるので当事者に聞くのが一番良いと思っています。

▼ファミマ周辺

そしておっちゃんの通ってきた道を進み(途中で木が倒れていたり💦)
ファミリーマートまでつきました。そこには駐車場を埋め尽くし、道路まではみ出すほどの車が溢れていました。店自体は閉まっているので、これはもう進めないかもと察しました。

能登里山街道入り口はすでに通行止めになっているため、あとは穴水までの道は下道しかないのでそこが通れなくなったら終わり・・・

▼里山街道様子※Xより引用


近くにいた人に話を聞いてみると「この先はもう通れない」と言っており全員立ち往生しているとの事でした。
その時感じた率直な感想は「終わった・・・・・」里山インターは塞がっている、下道も塞がっているとなると車でいける手段はありません、あたりは真っ暗なので今から実家へ戻るのも危険な状態と思いました。

一応状況だけ見てくるかと思い車をゆっくり走らせていると対向車が結構くるので停めて聞いてみると「この先は無理だ」と言われたので走るのを諦め(ガソリンがもったいない)一旦ファミマに引き返し、ここにいてもしょうがないなぁ・・と思い次の選択をどうするか考えました。

「ファミマで車中泊」「実家へ戻る」の2択、情報を調べようと思ったらなんと圏外(泣)電波が繋がるところを車でウロウロしながら探したら割と安全そうな場所を発見(周りに人がいないのが不安だが)、携帯で情報を調べたらまだ交通状況のはっきりアナウンスされておらずX(Twitter)とか見ながら収集していました。

国が何千人単位で自衛隊などの応援を要請しているというニュースも出ており、こっちに来るには塞がっている道を通ってこなければ辿りつけないので明日の昼頃まで様子見て、こちらまで車両が来るのを待とうと思いました。それまでは車中泊をするしかないので、車中泊の準備をすることに。

最悪のケースは行き帰りの道路が塞がってしまい、しばらく立ち往生してしまうケースも考え食糧やガソリンや電波の状況を確認、飲料は水3本とお土産のお菓子💦、ガソリンは金沢までなら余裕で走るくらい、特にガソリンは無くなったら終了だと思ったのでできるだけエンジンをつけずに過ごそうと思ったのですが外はマイナス3度で、子供は毛布をかぶってもらい、自分はダウンジャケットとパーカーを足に巻いて温め乗り切ろうとしました。

ちょいちょい余震があり結局ほぼ寝れずに(子供は寝てくれた!)いたら夜中3時くらいに電波が通じなくなっており情報収集ができなくなってしまいました・・・山奥で電波が繋がらないのとガソリンが徐々に減っていくのはホント地獄でめちゃくちゃ怖かったです。

電波が無くなったのでこの場所にいても意味ないかもと思い能登空港に行く事に、途中地盤亀裂走っていた箇所もありましたが朝4時ごろ能登空港につきました。滑走路のに地盤亀裂があり運行中止になっていたので航空を利用するお客さんがバスの中で夜を過ごしており、テントで水と食糧の配給を行っておりめちゃくちゃ助かりました。

実は立ち往生する可能性を見て雪を溶かして水分にしようという作戦を決行してましたが水手に入りそうなので雪は捨てる事にしました。

▼雪溶かす作戦


なんとか車中泊を乗り切り朝の7時ごろ配給されたお粥を家族で食べて次の作戦を考えていました。電波はつながらず情報が欲しいが手に入らない・・・ガソリンの残りも気にしつつ少し休憩した後にもう一回ファミリーマートの視察に行く事にしました。

能登→穴水→七尾 片側しか走れない道を進む

車ファミリーマートの途中にガソリンスタンドがあり、従業員はいたが営業はできない状況で、復旧の目処も立ってないようでした。
そしてファミリーマートにつくと車中泊の数が激減していました。能登空港で緊急車両も穴水方面から何台も来ている事を確認できました。

これは道が通ってそう!このまま七尾を目指して行く事にしました。

友人から金沢は被害が少ない事を聞いていたのと交通状況も普段通りと情報があったのも助かった・・・

穴水方面へ行く途中いきなり地盤がひどい状況で割れており、一度ハマったら抜けられないと思い慎重にいきました(夜は走っちゃダメ!)土砂崩れなどもあったがもののなんとか進んでいけました。

能登カントリークラブを過ぎたあたりから超渋滞に捕まり2時間近く足止めをくらいました。
車の外に出て情報収集していた所、どうやら対向車が事故により地面にハマってしまい運転者を緊急搬送するためにレスキューを待っているとの情報でした。

▼片道が崩壊※Xより引用


☝️ここで渋滞していた

しばらくするとレスキュー隊と救急車が到着し重症者の救助を行い、その後一般車両の通行が再開されました。
片道しかない状況で、慎重に動き進んでいきました。これは地震や、雨が降ったら土砂や地盤崩れで道路が遮断されるかもと思いめちゃくちゃ恐怖が走りました。この道路が塞がると車で行く手段が無くなるので、なんとか持ってくれと思いながら・・・

とにかく能登〜穴水の下道の状況がひどいため、不要不急の一般車両は通らない方が良いと感じました。
1発の事故で数時間足止めをくらうのでその分被災地に届くはずの物資が遅れてしまうので、その辺も考えつつ行動するべきだと思いました。

▼車が横転※Xより引用


▼土砂崩れ


なんとか穴水までついて少しホッとしました。東京に向かうつもりでしたが行くとしたら日を跨いでしまうと思い子供もキツそうだったので、妻の実家である岐阜を目指す事にしました。

穴水〜七尾は道路の破損などはあるものの、なんとか通ることはできました。

▼穴水町で途中横転している車も


七尾に到着しましたがコンビニ、ガソリンスタンドなどの営業はやっておらずガソリンが心配になりつつそのまま走行していきました。
富山でようやくガソリンを入れることができ(制限20ℓ)そのまま岐阜まで行くことができました。

1月2日18時ごろに岐阜に着いて、能登にいる家族に連絡するが電波悪くてつながらないし、道路の状況も大丈夫か心配で、外からすぐできることは安否確認とか役立つ情報とか物理的になにかできることは限られるので1人の力だと無力だなと思いました。現場は父と弟がいるので大丈夫だとは思いますが連絡がつかないのはやはり怖い・・・・

能登町の復興応援をしたい

今回の災害は今からさらに大変だと思います。珠洲では住宅の倒壊、輪島では火災被害が大きく、能登町も多くの家が住める状況ではなくなっているので復旧が数ヶ月、数年かかるのかもしれません。道路状況がよくなれば再度手伝いに行こうとは思っています。自分でできる事をやって少しでも地元に貢献できればと思っています。

支援ページはこちら(能登町からのYouTubeでのメッセージなど公開中)

この記事を書いた人

能登町応援メンバー